山口歯科Blog | 大阪 天満・天神橋の歯医者さん
山口歯科より大阪市北区周辺の患者様に贈る歯の情報BLOG
2018年
12月14日
(金曜日)
猫寺に行ってきました・・・(=^・^=)
こんにちは
院長の山口です。
私の福井の田舎でも常時猫を飼っていました。
飼っていたというか、都会とちがって全く自由に外へ行ったり・・。お腹が空くと帰ってきたり・・・
部屋で寝てる時もあれば、外泊したり・・そんな感じでした。
私の実家も猫を飼っていましたが、住宅街でしたので、基本はお家の中で、たまに首輪を付けて庭にだしたりしてました。
というわけで、ワンコも好きですが、猫は結構馴染みがありました。
最近は猫ブームとかで結構猫だけのテレビ番組などもやってたりしてますが、観ていると全国に「猫のいる島」とかがあるそうです。
福井県にも「猫寺」なる猫が沢山いるお寺があることを知り、行ってみました。

福井県の武生インターから結構近いところにそれはあります。
お寺の名前は「御誕生寺」というそうで、本山は総持寺のようですので、曹洞宗のお寺ですね。
でも歴史は浅くて、写真に写ってる本堂も平成20年に出来たみたいです。
この頃に助けた数匹の猫をきっかけに、最多時は100匹くらいの猫がいたそうな。
すべての猫に名前を付けて、病気や怪我の治療や、1日2回のエサやりとかを、お寺の方や篤志家の力で保護しているそう。
テレビなどで有名になり、「猫寺見学ツアー」なるものも行われているとの事。
もちろん引き取って飼いたいという方には譲渡しています。

こんな石像もあります( ^ω^ )
境内には様々なところに猫がうろうろしてたりします。

まだ子供かな?首輪をしています。

中々、野良猫には見えない恰幅のよさそうな猫ですね。
みんなカワイイじゃーないか(^∇^)
ベンチに座って、いろんなにゃんこを見ながら”食事タイム”がくるまで待っておこう。

・・・・1匹のにゃんこが私を睨んでる・・・?

じっと座ってこっちを見てます。
それにしても凄い目つきですねー(°_°)
すると、ゆっくり歩いてきて一歩一歩確認するように私の膝の上に上がってきましたw(゚o゚)w


もう全く動こうとしません。
基本的にここの猫は人には慣れているようですが、撫でようとしたりすると逃げていくみたいで、他の見物客が寄ってきて、私に
「珍しいですね乗って来るなんて。猫が好きなんですか?」
って聞いてきたりしました。
どれどれ、どんな顔して乗っかっているのかな・・・?

・・・かわいいじゃないか・・・(*´~`*)
首輪にはネームプレートが。
名前は”なずな”か・・・・
メスだな・・(勝手に想像しております)

首にバンダナ(ハンカチ?)を巻いている猫は、療養中の印だとか…
さて、”食事タイム”が近づいているのがわかっているのか、猫たちは社務所の前に少しずつ集まってきました。
お寺の方が猫の”お皿”を置いていきます。
さあ、”もぐもぐタイム”です・・・続く

院長の山口です。
私の福井の田舎でも常時猫を飼っていました。
飼っていたというか、都会とちがって全く自由に外へ行ったり・・。お腹が空くと帰ってきたり・・・
部屋で寝てる時もあれば、外泊したり・・そんな感じでした。
私の実家も猫を飼っていましたが、住宅街でしたので、基本はお家の中で、たまに首輪を付けて庭にだしたりしてました。
というわけで、ワンコも好きですが、猫は結構馴染みがありました。
最近は猫ブームとかで結構猫だけのテレビ番組などもやってたりしてますが、観ていると全国に「猫のいる島」とかがあるそうです。
福井県にも「猫寺」なる猫が沢山いるお寺があることを知り、行ってみました。

福井県の武生インターから結構近いところにそれはあります。
お寺の名前は「御誕生寺」というそうで、本山は総持寺のようですので、曹洞宗のお寺ですね。
でも歴史は浅くて、写真に写ってる本堂も平成20年に出来たみたいです。
この頃に助けた数匹の猫をきっかけに、最多時は100匹くらいの猫がいたそうな。
すべての猫に名前を付けて、病気や怪我の治療や、1日2回のエサやりとかを、お寺の方や篤志家の力で保護しているそう。
テレビなどで有名になり、「猫寺見学ツアー」なるものも行われているとの事。
もちろん引き取って飼いたいという方には譲渡しています。

こんな石像もあります( ^ω^ )
境内には様々なところに猫がうろうろしてたりします。

まだ子供かな?首輪をしています。

中々、野良猫には見えない恰幅のよさそうな猫ですね。
みんなカワイイじゃーないか(^∇^)
ベンチに座って、いろんなにゃんこを見ながら”食事タイム”がくるまで待っておこう。

・・・・1匹のにゃんこが私を睨んでる・・・?

じっと座ってこっちを見てます。
それにしても凄い目つきですねー(°_°)
すると、ゆっくり歩いてきて一歩一歩確認するように私の膝の上に上がってきましたw(゚o゚)w


もう全く動こうとしません。
基本的にここの猫は人には慣れているようですが、撫でようとしたりすると逃げていくみたいで、他の見物客が寄ってきて、私に
「珍しいですね乗って来るなんて。猫が好きなんですか?」
って聞いてきたりしました。
どれどれ、どんな顔して乗っかっているのかな・・・?

・・・かわいいじゃないか・・・(*´~`*)
首輪にはネームプレートが。
名前は”なずな”か・・・・
メスだな・・(勝手に想像しております)

首にバンダナ(ハンカチ?)を巻いている猫は、療養中の印だとか…
さて、”食事タイム”が近づいているのがわかっているのか、猫たちは社務所の前に少しずつ集まってきました。
お寺の方が猫の”お皿”を置いていきます。
さあ、”もぐもぐタイム”です・・・続く
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猫寺に行ってきました・・・(=^・^=) 続き・・・
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猫寺に行ってきました・・・(=^・^=)
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”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その4
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Title: 猫寺に行ってきました・・・(=^・^=) >>
2018年
12月10日
(月曜日)
”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その4
こんにちは
院長の山口です。
さて・・・さらに続きです。
戦後バラックで出来た3代目敦賀駅ですが、昭和26年に4代目の敦賀駅が完成しました。
これが最近まで改装されながら使用された駅舎です。

当時、北陸で最初の鉄筋コンクリート造りの建物だったそうです。
でも、ほとんど平屋ですね。
この写真を見ると、すでに架線が張られているので、昭和32年以降でしょうか。
昭和32年に、木之本↔敦賀間に現在の近江塩津経由の新線が電化開業されましたから。
昭和37年に北陸トンネル経由の現在の新線が電化開業し、敦賀↔今庄間の旧線(杉津経由)が廃止となり、敦賀機関区(第一)からたくさんの蒸気機関車がリストラされて、金沢、富山方面に移っていきました。

この航空写真より、貨物列車の先頭には電気機関車がみえますし、第一機関区辺りにもほとんど蒸気機関車が見られないので、昭和37年以降のものかもしれません。
ちなみにこの頃はまだまだ小浜線は蒸気機関車が使用されています。

この写真は、おそらく昭和50年前後の敦賀駅です。
左から2番目のクルマは、昭和47年にRX系にモデルチェンジされた「マークⅡ」ですね(・Д・)ノ
懐かしいです。

これは4代目駅舎が壊される前の駅舎です。
ほんの少し前まで使用されていました。
さて、北陸新幹線開通に向けて数年前から駅舎を含め大幅にリニューアルされます。
まずは、旧駅(街側)および駅前の整備から始まりました。

5代目敦賀駅の誕生です。

駅前のロータリー辺りも含めて綺麗に整備されました。

とても立派な駅舎!と思うのですが、実は向かって右手の隣接している建物は市が管理する「オルパール」なる交流施設です。

昔から駅前に展示というか、置いてあった蒸気機関車の動輪(9600型?)も残されてます。
新幹線の駅は、昔の第一機関区あたりと現在より離れた場所に出来ます。
たぶん新幹線のホーム兼駅が現在の場所の反対側(東側)になるので、そちらの駅前の整備とかに力を入れるのではないかと思います。

しばらくは北陸新幹線の終点として、在来線の乗り換え駅として、しばらくは”鉄道の町”として続きそうです。

院長の山口です。
さて・・・さらに続きです。
戦後バラックで出来た3代目敦賀駅ですが、昭和26年に4代目の敦賀駅が完成しました。
これが最近まで改装されながら使用された駅舎です。

当時、北陸で最初の鉄筋コンクリート造りの建物だったそうです。
でも、ほとんど平屋ですね。
この写真を見ると、すでに架線が張られているので、昭和32年以降でしょうか。
昭和32年に、木之本↔敦賀間に現在の近江塩津経由の新線が電化開業されましたから。
昭和37年に北陸トンネル経由の現在の新線が電化開業し、敦賀↔今庄間の旧線(杉津経由)が廃止となり、敦賀機関区(第一)からたくさんの蒸気機関車がリストラされて、金沢、富山方面に移っていきました。

この航空写真より、貨物列車の先頭には電気機関車がみえますし、第一機関区辺りにもほとんど蒸気機関車が見られないので、昭和37年以降のものかもしれません。
ちなみにこの頃はまだまだ小浜線は蒸気機関車が使用されています。

この写真は、おそらく昭和50年前後の敦賀駅です。
左から2番目のクルマは、昭和47年にRX系にモデルチェンジされた「マークⅡ」ですね(・Д・)ノ
懐かしいです。

これは4代目駅舎が壊される前の駅舎です。
ほんの少し前まで使用されていました。
さて、北陸新幹線開通に向けて数年前から駅舎を含め大幅にリニューアルされます。
まずは、旧駅(街側)および駅前の整備から始まりました。

5代目敦賀駅の誕生です。

駅前のロータリー辺りも含めて綺麗に整備されました。

とても立派な駅舎!と思うのですが、実は向かって右手の隣接している建物は市が管理する「オルパール」なる交流施設です。

昔から駅前に展示というか、置いてあった蒸気機関車の動輪(9600型?)も残されてます。
新幹線の駅は、昔の第一機関区あたりと現在より離れた場所に出来ます。
たぶん新幹線のホーム兼駅が現在の場所の反対側(東側)になるので、そちらの駅前の整備とかに力を入れるのではないかと思います。

しばらくは北陸新幹線の終点として、在来線の乗り換え駅として、しばらくは”鉄道の町”として続きそうです。
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”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その4
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”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その3
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Title: ”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その4 >>
2018年
12月06日
(木曜日)
”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その3
こんにちは
院長の山口です。
またまた前回の続きです。
明治43年に2代目駅舎が完成しましたが、その数年後に北陸本線として米原↔直江津間が全通。
”本線”とは名ばかりで、ほぼ全区間で単線非電化の細い動脈でしたが、物流や人の流れは大きく変わることになったようです。
この頃使用されていた機関車は、あまり資料がないが、2120型とかも使用されていたらしいがなんせ急勾配連続な路線。
たぶんかなり輸送量を制限しながら運んでいたのではないだろうか(あくまで推測です・・)
北陸本線が全通したころに、「9600型」機関車(通称キューロク)が生産され全国で活躍します。
大正2年頃から、さらに力持ちになった「9900型」機関車が生産されます。
「9900型」機関車は昭和の初めに形式変更により、「D50型」(通称デゴマル)機関車と名前を変えます。
「D50型」は力持ちで、すぐに北陸線にも配置されたようです。
昭和11年には、のちに”1000t貨物”の主役であった「D51型」機関車が生産を開始。
当然 1号機は敦賀機関区に配置されたとのこと。
この有名な力持ちの機関車「D51型」は、明治初期に掘られた断面積の小さな北陸線のトンネルが通過出来るように設計されたとか・・・・・知らんけど(*ノェノ)
話はずれまくりましたが、この頃の敦賀の様子です。

(昭和12年頃)
右手下のほうにカーブを描いた敦賀駅が見えます。
端っこには”ラウンドハウス”が・・・\(^o^)/
上方は敦賀湾と敦賀港。
中央やや上側に見える黒い繁みが気比神宮”です。
初代敦賀駅は、この神社の南西辺りにあったとの事。
またこの年に敦賀町と松原村が合併して「敦賀市」となったのでありました。
・・・そして日本は戦争に向かって進んでいきました。
昭和20年、敦賀空襲により一面は焼け野原になったそう・・・(つω-`。)

(”ふるさと敦賀の回想”より)
一面廃墟と化した街並みです・・・
この時に、敦賀駅駅舎も焼失してしましました。
日本中焼け野原になった街は数限りなくありますが・・・それでも鉄道は走っていました。
とりあえず、駅はすべての復興への先駆けです。
そしてとりあえず駅舎を建てました。

バラック造りの駅本屋です。
一応これが3代目敦賀駅・・・となるのでしょうか・・・・・?
しつこく続く・・

院長の山口です。
またまた前回の続きです。
明治43年に2代目駅舎が完成しましたが、その数年後に北陸本線として米原↔直江津間が全通。
”本線”とは名ばかりで、ほぼ全区間で単線非電化の細い動脈でしたが、物流や人の流れは大きく変わることになったようです。
この頃使用されていた機関車は、あまり資料がないが、2120型とかも使用されていたらしいがなんせ急勾配連続な路線。
たぶんかなり輸送量を制限しながら運んでいたのではないだろうか(あくまで推測です・・)
北陸本線が全通したころに、「9600型」機関車(通称キューロク)が生産され全国で活躍します。
大正2年頃から、さらに力持ちになった「9900型」機関車が生産されます。
「9900型」機関車は昭和の初めに形式変更により、「D50型」(通称デゴマル)機関車と名前を変えます。
「D50型」は力持ちで、すぐに北陸線にも配置されたようです。
昭和11年には、のちに”1000t貨物”の主役であった「D51型」機関車が生産を開始。
当然 1号機は敦賀機関区に配置されたとのこと。
この有名な力持ちの機関車「D51型」は、明治初期に掘られた断面積の小さな北陸線のトンネルが通過出来るように設計されたとか・・・・・知らんけど(*ノェノ)
話はずれまくりましたが、この頃の敦賀の様子です。

(昭和12年頃)
右手下のほうにカーブを描いた敦賀駅が見えます。
端っこには”ラウンドハウス”が・・・\(^o^)/
上方は敦賀湾と敦賀港。
中央やや上側に見える黒い繁みが気比神宮”です。
初代敦賀駅は、この神社の南西辺りにあったとの事。
またこの年に敦賀町と松原村が合併して「敦賀市」となったのでありました。
・・・そして日本は戦争に向かって進んでいきました。
昭和20年、敦賀空襲により一面は焼け野原になったそう・・・(つω-`。)

(”ふるさと敦賀の回想”より)
一面廃墟と化した街並みです・・・
この時に、敦賀駅駅舎も焼失してしましました。
日本中焼け野原になった街は数限りなくありますが・・・それでも鉄道は走っていました。
とりあえず、駅はすべての復興への先駆けです。
そしてとりあえず駅舎を建てました。

バラック造りの駅本屋です。
一応これが3代目敦賀駅・・・となるのでしょうか・・・・・?
しつこく続く・・
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”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その4
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”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その3
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”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その2
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Title: ”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その3 >>
2018年
12月05日
(水曜日)
”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その2
こんにちは
院長の山口です。
前回のつづきです。
初代敦賀駅は気比神社の前あたりにあり、さらにそこから北上して敦賀港まで開通しました(駅名は当時は金ケ崎)。
明治17年には滋賀県の長浜駅まで開通し、琵琶湖水運を通して京都・大阪へ行けるようになりました。
また、敦賀港は、国際港として開港すると、ロシアや大陸との定期航路に連絡する東京からの直通列車が運行されるようになります。
明治25年に「鉄道敷設法」が公布されると、敦賀から福井、金沢、富山へのルートが調査され始めました。
敦賀から今庄までは、海側の山の斜面を登り、山中越えを経て今庄に達する厳しいルートとなり、明治29年7月に敦賀↔福井間が開通しました。
しかしまだこの時は、敦賀駅の位置は変わらず、スイッチバックして福井に向かっていたようです。

福井方面に向かう列車は、進行方向が逆向きになるわけですね。
この頃の敦賀港の様子です。

(明治30年頃 ”ふるさと敦賀の回想”より)
港はたくさんの船で溢れており活気がありそうです。
また手前には貨物車が見えます。
この駅配置は不便だったのと、駅が手狭になったんでしょう。
明治42年に現在の位置に移転となりました。
そのちょっと前の明治35年に初めて、米原↔敦賀↔金ケ崎 を「北陸線」と言うようになったそうです。

(明治42年測量)
駅の手前から右カーブしている現在の駅の位置となりましたが、敦賀港へ向かいう線路はそのままなので、やはりスイッチバック式に進まなくてはなりませんね。
駅移転の1年後、明治43年に2代目の敦賀駅舎が誕生します。
この時にほぼ北陸線(米原↔直江津間)が全通していましたが(正確には大正2年全通)、戦争で被災するまでは、「北陸一の大駅舎」と言われていたそうです。

(明治43年6月 ”ふるさと敦賀の回想”より)
とても立派な駅舎ですね。和洋折衷な感じがします。
記録がないのでわかりませんが、ひょっとしたらこの頃に敦賀港線が現在のように分岐するようになったのでしょうか・・・?

(昭和9年測量)
ほぼ今のルートになりました(まだ北陸トンネルはありませんが。。)
こうして2代目駅舎は戦争で焼かれてしまうまで、敦賀町(のちに市)の顔として使用されました・・・・・続く

院長の山口です。
前回のつづきです。
初代敦賀駅は気比神社の前あたりにあり、さらにそこから北上して敦賀港まで開通しました(駅名は当時は金ケ崎)。
明治17年には滋賀県の長浜駅まで開通し、琵琶湖水運を通して京都・大阪へ行けるようになりました。
また、敦賀港は、国際港として開港すると、ロシアや大陸との定期航路に連絡する東京からの直通列車が運行されるようになります。
明治25年に「鉄道敷設法」が公布されると、敦賀から福井、金沢、富山へのルートが調査され始めました。
敦賀から今庄までは、海側の山の斜面を登り、山中越えを経て今庄に達する厳しいルートとなり、明治29年7月に敦賀↔福井間が開通しました。
しかしまだこの時は、敦賀駅の位置は変わらず、スイッチバックして福井に向かっていたようです。

福井方面に向かう列車は、進行方向が逆向きになるわけですね。
この頃の敦賀港の様子です。

(明治30年頃 ”ふるさと敦賀の回想”より)
港はたくさんの船で溢れており活気がありそうです。
また手前には貨物車が見えます。
この駅配置は不便だったのと、駅が手狭になったんでしょう。
明治42年に現在の位置に移転となりました。
そのちょっと前の明治35年に初めて、米原↔敦賀↔金ケ崎 を「北陸線」と言うようになったそうです。

(明治42年測量)
駅の手前から右カーブしている現在の駅の位置となりましたが、敦賀港へ向かいう線路はそのままなので、やはりスイッチバック式に進まなくてはなりませんね。
駅移転の1年後、明治43年に2代目の敦賀駅舎が誕生します。
この時にほぼ北陸線(米原↔直江津間)が全通していましたが(正確には大正2年全通)、戦争で被災するまでは、「北陸一の大駅舎」と言われていたそうです。

(明治43年6月 ”ふるさと敦賀の回想”より)
とても立派な駅舎ですね。和洋折衷な感じがします。
記録がないのでわかりませんが、ひょっとしたらこの頃に敦賀港線が現在のように分岐するようになったのでしょうか・・・?

(昭和9年測量)
ほぼ今のルートになりました(まだ北陸トンネルはありませんが。。)
こうして2代目駅舎は戦争で焼かれてしまうまで、敦賀町(のちに市)の顔として使用されました・・・・・続く
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Title: ”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その2 >>
2018年
12月04日
(火曜日)
”鉄道の町”・・・・歴代の敦賀駅その1
こんにちは
院長の山口です。
前回は「鉄道の町」敦賀に新幹線が来るというお話でした。
そこで今回は、前後に峠越えが待ち受けた鉄道の町敦賀駅の歴史のお話です・
簡単に敦賀駅の歴史を書くと・・
明治3年、「東京ー神戸」と「琵琶湖ー敦賀」の測量を開始しました。。
琵琶湖と敦賀の物流は重要であったため、国としても重要案件だったのだろう。
当初は日本海と琵琶湖との間に運河を作る計画があったらしいが、さすがに大変とのことで鉄道敷設が選ばれたようです。
以前のブログに、敦賀駅は明治17年開業と書きましたが、実際は、敦賀港(金ケ崎)↔敦賀↔洞道口(柳ケ瀬隧道西口あたり)
の区間および柳ケ瀬↔長浜の区間の開業は、明治15年3月ですね。
そして2年後の明治17年に「柳ケ瀬隧道」が完成して、敦賀↔長浜間が全通となったのでありました。
ちなみにこの時の東海道本線は米原経由ではなく関ヶ原から北西方向に進み長浜駅に達していました。
これは長浜からの輸送を琵琶湖の海運に任せていたからですね。
長浜↔大津は船で結び、大津(当時は馬場)からは京都から伸びてきた鉄道(今の東海道本線)にバトンタッチして、京や大阪に運んでいたのであります。
明治13年、鉄道は神戸↔大津が全通しましたが、そこから東は琵琶湖の海運に頼っていたため、大津↔米原間の鉄道敷設はしばらくストップしていた様です。
明治22年。東海道本線が今のルート(大津↔米原開通)になると同時に、長浜↔米原も開通し、敦賀港で荷揚げされた米や魚などの物資が直接鉄道で京都・大阪方面に、そして名古屋方面にも運ばれることになったのでありました。
これが、ざっとした北陸本線と敦賀駅の歴史であります。
さて、明治15年開業当時にあった敦賀駅の場所は今とは大きく違っていました。

場所的には、現在の気比神宮の前辺りだったそうですw(゚o゚)w
現在の敦賀駅のある辺りは・・原野ですね。
つまり、敦賀港からの荷物を運ぶのが目的でしたから、福井方面には向いてなかったのですね。
初代敦賀駅駅舎はこんな感じだったそうです。

(~市制施行50周年記念写真集 ふるさと敦賀の回想~より)
駅前ですね。ずいぶんにぎやかです。
しかし、明治29年難工事を経て敦賀↔福井間が開業します。
この区間のうちの敦賀↔今庄間が後に”1000t輸送”の戦場となった杉津経由の路線であります。
この時、敦賀駅は大きく場所を移動することになりました。
それが2代目の敦賀駅となるわけです・・・・・ つづく

院長の山口です。
前回は「鉄道の町」敦賀に新幹線が来るというお話でした。
そこで今回は、前後に峠越えが待ち受けた鉄道の町敦賀駅の歴史のお話です・
簡単に敦賀駅の歴史を書くと・・
明治3年、「東京ー神戸」と「琵琶湖ー敦賀」の測量を開始しました。。
琵琶湖と敦賀の物流は重要であったため、国としても重要案件だったのだろう。
当初は日本海と琵琶湖との間に運河を作る計画があったらしいが、さすがに大変とのことで鉄道敷設が選ばれたようです。
以前のブログに、敦賀駅は明治17年開業と書きましたが、実際は、敦賀港(金ケ崎)↔敦賀↔洞道口(柳ケ瀬隧道西口あたり)
の区間および柳ケ瀬↔長浜の区間の開業は、明治15年3月ですね。
そして2年後の明治17年に「柳ケ瀬隧道」が完成して、敦賀↔長浜間が全通となったのでありました。
ちなみにこの時の東海道本線は米原経由ではなく関ヶ原から北西方向に進み長浜駅に達していました。
これは長浜からの輸送を琵琶湖の海運に任せていたからですね。
長浜↔大津は船で結び、大津(当時は馬場)からは京都から伸びてきた鉄道(今の東海道本線)にバトンタッチして、京や大阪に運んでいたのであります。
明治13年、鉄道は神戸↔大津が全通しましたが、そこから東は琵琶湖の海運に頼っていたため、大津↔米原間の鉄道敷設はしばらくストップしていた様です。
明治22年。東海道本線が今のルート(大津↔米原開通)になると同時に、長浜↔米原も開通し、敦賀港で荷揚げされた米や魚などの物資が直接鉄道で京都・大阪方面に、そして名古屋方面にも運ばれることになったのでありました。
これが、ざっとした北陸本線と敦賀駅の歴史であります。
さて、明治15年開業当時にあった敦賀駅の場所は今とは大きく違っていました。

場所的には、現在の気比神宮の前辺りだったそうですw(゚o゚)w
現在の敦賀駅のある辺りは・・原野ですね。
つまり、敦賀港からの荷物を運ぶのが目的でしたから、福井方面には向いてなかったのですね。
初代敦賀駅駅舎はこんな感じだったそうです。

(~市制施行50周年記念写真集 ふるさと敦賀の回想~より)
駅前ですね。ずいぶんにぎやかです。
しかし、明治29年難工事を経て敦賀↔福井間が開業します。
この区間のうちの敦賀↔今庄間が後に”1000t輸送”の戦場となった杉津経由の路線であります。
この時、敦賀駅は大きく場所を移動することになりました。
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近づいてきた・・・北陸新幹線敦賀延長!
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